とある夜の仕事中、私の携帯電話に妻から何度も電話がかかってきます。
その度に離席し、空室の会議室に入って小声で話します。
あと少し、あと少しで終わるから、と、あまり当てにならない言い訳をしながら、電話口にひたすら謝っている私。
時には、逆ギレしてしまうこともありました。
いくらでも仕事はあるんだ、一つの仕事が済んだらまた次の仕事があるんだ、仕方がないんだ。
こう言ってなんとか電話を切り、また自分の席へと戻って時計を見れば、もう午後11時を回っていました。
オフィスのフロアを見渡せば、遅くまで残業しているのは私だけではなく、同じ部署の同僚もいれば、他の部署でも明かりがついています。
やってもやっても終わらない。
長時間労働で回らなくなってきた頭を無理やり回し、エクセルファイルに数式を打ち込む私。
数字が頭の中でグニャグニャと回っています。
眠気を強引に打ち消すために、今日は何個のガムと何杯のコーヒーを飲んだだろうか、よく思い出せない。
終電が近い、でもそんなことに意識を向けている時間がもったいない。
目の前の仕事を1分でも早く終わらせて、さっさと家に帰るんだ・・・・・・・・・。
終電に乗り込んで愕然とする瞬間
私が仕事をしているときは、このようなシーンが幾度となくありました。
終電に間に合わず、自腹でタクシー帰宅を余儀なくされる時もありました。
家族に頭を下げながら、土曜・日曜・祝日に出勤することもしょっちゅうでした。
昼飯も摂らずに一心不乱にパソコンのキーを叩く日もありました…。
ある日、終電に間に合うか間に合わないかという時間に仕事を終え、オフィスから駅までダッシュしていた私。
駅に着いてみると、何かトラブルがあったせいで、電車が遅れていた。終電ではない電車が
ホームに停まっていました。
やった、ラッキー!と思いながら乗り込むと、ちょうど電車は動き出し、過ぎる夜景をボーっと見ながら、こう思いました。
「今日は仕事が大分進んだと思うし、電車にも間に合った。しかも終電1コ前の電車に。なかなかラッキーな日だな…」と。
…次の瞬間、一体何がラッキーなんだと、自分で自分に愕然としました。
マレーシアで暮らしていて、こう思います。
そのような状況下にいた自分が哀れでなりません。
でも目の前の仕事を処理して会社に貢献することは、正直言って充実していなかったとは言えませんでした。
しかし、見ているものがあまりにも、あまりにも小さすぎる。
サラリーマンからの”脱落”か”脱出”か
「自分はこんな小さな世界に生きていたのか。」
目の前の仕事がすべてと思い、時間も、家族も、すべてを二番手に回して仕事を最優先してきました。
たとえ口からは家族が一番だ、と言ってはいても、まったく行動が伴っていませんでした。
仕事を第一とするのは日本のサラリーマンとして当然あるべき姿であり、最低限の姿勢でしょう。
大地震が起きてもまずは会社へ連絡し、指示を仰ぐのが正しい対処法です。
皆が遅くまで仕事に取り組んでいるのに、自分だけ進捗が遅れたり、周りに迷惑をかけるなんて、あってはならないことです。
ですが、それは思い上がった考えでした。
自分がいなくなっても、同じ仕事を他の誰かがします。
周りの負担は増えるかもしれませんが、業務が回らなくなって企業活動が停滞することは決してありません。
なんだかんだ言っても、代わりはいます。
それを「サラリーマンからの”脱落”」と呼ぶ人もいます。
だが、逆の立場から見れば「脱出」とも言えるのではないでしょうか。
答えを一つに見せるのは日本の社会。
答えが一つではないのが世界。
どちらが正しいのかを判断できるのは、もはや自分の中にしかありません。
「小さな池はいつか干上がってしまうかもしれない。大きな湖も永遠ではない。だが海にまで行ってしまえば、青々とした水は決してなくなることはない」
…名言ですね。